今年は日韓国交正常化60周年の年にあたる。
改めて二つの国の関係を考えてみる良い機会だと思う。節目というのは大切なものだ。
日韓については、様々な意見のあることは承知しているが、敢えて僕の思いを述べてみたい。専門家ではないので無知な所はお叱り願いたい。
日本は明治四年に廃藩置県を行い、幕藩体制に終わりを告げた。
しかし、その翌年(明治5年)には沖縄の島民が台湾に漂着し、それに対する台湾島民の仕打ちに抗議する意味で出来たばかりの明治政府は海軍が出動。早くも武力を示している。
その後日清戦争の勝利の後、下関条約により清国より台湾を割譲し、その後台湾総督府をおき約50年の間、植民地として統治する。
日本では台湾統治は比較的上手く行ったと理解されてはいるが、しかしそうばかりではないと考えている。本来、台湾の人々は下関条約の事など知らないからだ。どうしても「統治する」という事は無理を伴うものだ。
韓国に対しては、明治八年に、ソウルの対岸にある江華島という島での小児簿な軍事衝突を起こす。そして、その後、日清、日露の激戦を経て、明治43年に日韓併合が行われた。
日本はそれまでじわじわと韓国における権益を強めていたが、やはり日清、日露の両戦における勝利は大きい。日本にも日本の理屈があった。対ロシア安全保障の問題だろう。そして、韓国国内も様々な意見に別れていたようだ。
高宗は明朝中華の後継を目指す。同時に地方には旧態依然とした両班勢力が存在し、更にはエリート青年は日本のような近代化への道を模索した。そんな混乱の中、韓国(大韓帝国)は、日本の保護国となる。その中では日本にあこがれ、そして、失望した青年による伊藤博文暗殺事件などもおきた。
庶民の抵抗を武断政治で制圧し日本化を進めていったが、日本が戦争に敗れたことにより韓国は36年ぶりに独立を手にした。しかしながらその後不幸にも、南北に別れて国民同士の戦いに突入する。三年に渡る死闘の末、300万とも言われる多くの人命と施設の破壊が繰り返され、休戦後は世界最貧国へと転落した。
この事は日本人には理解しがたい、韓国人の心底に深く深く刻まれた傷であると思う。
その韓国は今やOECDにも加盟する世界のリーダーの一人になった。
陰ながら日本も官民で様々な分野で協力したが、正式に国交が樹立したのは60年前になる。
我が家の立ち位置は427年前の豊臣秀吉の命令により出陣した島津家により薩摩へと渡来へと、さかのぼる。
時代は安土桃山時代である。
以来、薩摩の御用焼き物師としての仕事を続けてきた。
参勤交代の第一夜は我々の村である。
殿様に二年に一度お目にかかり、藩の重役、お年寄りとも語らう事ができた。士族の位を与えられていた。
近世の日韓の歴史問題を巡る政局に振り回される事も多いが、しかし、大きな目で見てみると北東アジアは中国という母親の胸から朝鮮半島という乳房が垂れ下がり、その隣に日本という子供が添い寝しているように見える。
様々な文化、文明がこの道を伝って日本に入ってきたのだ。稲作、青銅器、鉄器、律令制度、漢字、仏教、数え上げればきりがない。
その中で少しずつ日本独特の形を形成してきた。とにかく隣国とは様々あるものだ。その近さゆえ、当然かもしれない。ご近所トラブルは良く聞くが、遠い人とは揉めない。
60年前、父は渡韓した。初め我々の捕らわれの地、全羅北道南原の地を訪れ、その後ソウル大学で講演した。
「故郷忘じがたく候」に出てくるエピソードである。
「若い韓国が日帝支配36年を言うのは分かる。良く分かるが、言いすぎる事は既に後ろ向きだ。君達が36年を言うなら、私は360年を言わねばならない」
その言葉は学生の胸を打った。あの頃の学生も、もはや80歳になる。
お互いの非をつつき合うことを止めて、自分にない相手の良さを探せるような関係になりたいと思う。
編集長、岡田哲也氏の言葉がある。
「海が隔てるものがあり、海が繋ぐものがある」
その通りだ。
十五代 沈 壽官