今年はわが社の創業150年に当たる。創業のくだりは幾度も述べて来たが、改めて記しておく。
明治四年、廃藩置県により薩摩藩窯は廃窯となった。その後残された施設と技術者を中心に「薩摩陶器会社」が設立される。社長以下幹部は、以前の薩摩藩窯の要職についていた上級士族がそのまま引き継いだ。しかしながら、これまで薩摩焼、その中でも「白焼き」と呼ばれる白薩摩は一切販売されたことはない。「白焼き」は藩主から他藩の藩主への贈答品や江戸の薩摩藩上屋敷での接待に用いられるのが通常である。したがって一般人がいくらお金を積もうと入手することは出来なかったのである。「武家の商法」という言葉があるが、いきなりの民営化で商いは当然不調であった事は想像に難くない。まして、国中が大混乱の最中である。
例えて言うなら、公務員が全員失業した様なものである。しかし、明治6年のウィーン万博へ日本政府は正式に国家としてエントリーする。薩摩陶器会社も十二代 沈 壽官工場長を督励し大作を完成させる。高さ1メートル80センチの一対の豪華な大花瓶である。この作品はウィーン万博で大注目を浴び、「進歩賞」を受賞した。当時、さしたる輸出品も無かった日本政府にとって、好評を博した日本製陶磁器の輸出は外貨獲得の一つの手段に思われたのであろう。
全国の産地に輸出用の洋食器の生産が促され、其々に取り組むことになった。しかし、部屋のインテリアとして日本製の作品を飾ることはオリエンタルな面白みもあったが、何も食器の全てに至るまでそのテイストで、とまでは行かないのである。このプランは完全に失敗であった。薩摩陶器会社にとっても、生産したものの売れず、大量の「死に在庫」を抱えて困り果てていた。香港や上海まで販売を試みたが残念ながら、どうにもならず経営を圧迫し続けた。そしてついに65名のリストラの決定に至る。十二代 沈 壽官は経営陣に対して何とか翻意を促すがついに会社の決定は覆ることは無かった。当時、9歳から職業に就くのが一般的であった彼らに転職の道はなく、解雇されたら、その日から路頭に迷う事になる事は明白であった。そこで工場長十二代 沈壽官は自ら辞表を出し、この65名と運命を共にする事を決断する。多額のお金を借り「玉光山陶器製造所」を設立し、そっくりそのまま65名を雇い入れた。それが明治8年である。
今の自分に置き換えて、この決断が出来るか?と問う。知り合いの経営コンサルタントにたずねてみた。以下は彼の言葉である。会社は誰の為のものか?と考えた時、勿論リストラは人件費を減らし赤字を止める為に行われる。しかし同時に会社はお客様、従業員、オーナーのものであり株主の為だけのものではない。そして、その中で大切なのはそこに働く社員の生活、生き甲斐である。バランスシートでみると、左側の資産欄には有形資産の機械設備がある。しかし、実はそれに加えて無形資産である職人の技術があるのだ。リストラされた職人達ではあるが、十二代は彼らの持つ潜在的な無形資産(技術)は、しっかりと方向性を示せば真の力を発揮出来るという確信があったのだろう。更に、その力でマーケットを開拓できる自信があったのだろう、と解説してくれた。
実に素晴らしい!!と大絶贅であった。
現代ならリストラを実行した部長はその功を認められ役員に昇格するのであろうし、株主からは多額の賞与を認められるかもしれない。技量が低いから、勤務態度が悪いから、周囲とぶつかるから、といった理由で解一屋された彼らが十二代の元で生まれ変わった様に飛躍的に成長し、3年後の明治11年には東京の新橋に店を出し、更に明治13年には「薩摩陶器会社」の瓦解に伴い、残余の職人も吸収する事になる。そして、明治工芸を代表する人物へと存在感を示していくのである。
かくのごとく混乱期には、どんな時代の中でも胆力があり先見の明を持つリーダーがいてくれる事が部下にとつて本当に有りがたいことだが、果たして自分に当てはめた時、これが可能だろうか?
余程、回りの人材に恵まれた方だったのだろうが、不安も凄まじいものだったと思う。 一歩も引かないその決意の裏には、切り捨てられて行く部下達を決して見捨てない、という強い愛情を感じずにいられない。
